『社長のボヤキ』
2004.4.2
今日は息子容一郎の20歳の誕生日である。
昨日はすごかった。
日本大使館を朝少し早めに訪問する。相も変わらず、ヒステリックなクラクションの'るつぼ'をそれこそ、水すましの様に、Oliental linksの名ドライバーは走る、走る。
「この人達にレーシングカーをやらせたら、強いだろうな」なんて考えていたら、もう着いてしまった。約束の時間10分前であった。
ホコリと排気ガスでモーッとしていたのが、大使館のゲートをくぐった瞬間、澄んだ情景となる。青空までが美しい。フーッと一息入れて、谷武官と落ち合う場所へと急ぐ。
UN関係の事務所が建ち並ぶ一角に着く。厳重な警備である。民間車は中へ入れないらしい。やがて、UNのマークがついたワゴン車が迎えに来る。Oliental
linksに申し伝えようとしたが、兎に角、乗ってしまった。我々の車を待たせておくことにした。なんだかんだで、3台の車で動くことになった。
入り口と出口が違う。待たせた車のことが気になる。行程どの位の時間なのかも知らされていない。
兎に角、DDR事業を見せて呉れるのは確かな筈である。当車の運転手は出足の速いランクルを追っかけるのが精一杯・・・。5人も乗せて走るディーゼルのワゴン車とランクルでは出足が違う。
 
るいるいと並ぶ勇士の墓 緑色の布 赤い旗は地雷です
右・左に、棒に緑色の布を巻きつけた、それでいて、こんもり土が盛ってある、ムジャヒディーンか、勇士が眠っている墓地が映画のコマ送りみたいに移行する。一体何人死んだのかな?まだ、ここいら辺に埋葬されている人達は良い。つまり、死体があったから・・・。
まとめて高台に緑色の旗が立てられているのは、死体が粉々になったり、影も形もなくなった人のお墓なのだそうである。敵も味方も、アラーのおぼし召しによって、'インシャラー'なのだそうだ。
やがて、DDR事業の武器集積地へと着く。コンテナに集めた場所名が書かれている。実際、弾を入れると発砲できる銃が展示されていた。(さわった。トリガーも引いた。ウ〜ン)
ここは使用に耐え得る銃を集積しているのだそうだ。DDR事業の一つは、使える銃は国軍か、警察に又貸しするのだと云う。
 
銃破壊カッター 名銃 カラシニコフは持って帰りたかったです
大口径の銃が多い。ナルホド、銃の手入れをする人達が数名、破壊作業(大型電動カッターで銃を細かく切る)が数名、警備が10数名。鹿内氏の眼はそれこそ真剣・・・!生き生きとしている。マサルと中畑氏はカメラを回すことに専念している。今日が最後のアフガン。テープを全部使いつくすつもりだ。
在アフガニスタン日本大使館防衛駐在官2等陸佐 谷拓弥さんは、聞けば、津軽の中里町のご出身とか。小生の実家より30km離れた町で、家族も現在、中里町にお住みだとか。
津軽弁でやっちゃえとばかり、紙面には出せないが、かなりのことを『くっちゃべって』いた。どうせ、井上参事官にも工藤書記官にも判りっこないだろう。「エッヘヘヘ」と笑いながら、日本で最も難解な津軽弁、それももっと奥地の西北ナマリでしゃべって、二人で悦に入っていた。多分、女房も理解できない津軽弁。弘前人も判らない。
内容は、「Internationalシークレット・・・」でした。
アフガンの空の下、中里町の天才と板柳の人間が津軽弁でコミュニケーション、世界は決して広くない、狭いもんだ。
カッターで銃を切断する作業にチャレンジ。防護服に身を固め、イザ・・・。あっけなく切れた。記念に持って行けと云う。このウサン臭い顔で銃の切れ端をボストンバックに持って行ったら、税関で止められることは必定であろう。何てったって隊長だ!ロータリアンだ!潔くあきらめることとした。
 
D.D.R事業 谷二佐 工藤書記官 カッター処理後
坂本、西谷、井上参事官
銃スクラップ山積 谷二佐、鹿内、坂本
さて、イスラマ行き。疲れがドッと出る。食欲がない。
イスラマでちょいと食事。中華料理をOlientalの連中が誘う。空港でゆっくりしたいと云ったつもりだが、何と中華レストランへ。来て良かった。『ジャスミンティー』『焼きそば』『焼き飯』香辛料のない、食い慣れた物だけに、ウマかった・・・。
そして帰路へ・・・。
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