株式会社町田&町田商会

■ 経過及び聴取内容(スケジュール順)

2002年1月19日(土)

<UNHCRアフガン代表部イスラマバード連絡所長の羽生勇作所長によるブリーフィング概要>

最初にアフガニスタンのshort history概説。古代史、近世史、近代史の説明を受けた。
そもそものはじまりは1979年のソ連侵攻により、大量の600万人にのぼる難民が発生したことに端を発する。ソ連撤退後はアフガニスタンの傀儡共産政権が1988年に倒れ、1992年に内戦が勃発。
マドラッサ(神学校)の学生らによる精神運動が起こった。いわゆるタリバン。しかし彼らの政権には正当性がないので正式な政府と認めたのはサウジアラビア・イラク・パキスタンの3カ国にすぎなかった。
UNHCRアフガン代表部は過去年間の予算が7億円で、事務所維持費にも事欠くこともあったが今はだいぶ改善されている。
アフガニスタンの経済力がいかに疲弊しているか。1999年の統計では年間4700トンのケシ栽培Rを行っているが、1cakeが60ドルということで、人口2200万人あたりにすると4700トン×1,000kg×60ドル÷2200万人で、12ドル少々ということになり、とても生活を支えられるものではない。アラブ諸国からの資金援助が頼りとなっている。
UNHCRは1980年にパキスタンにアフガン難民のために代表部を設けた。その後難民の帰還を支援するため、アフガニスタンのカブールにUNHCRアフガニスタン事務所を開設。その後内戦の勃発により、UNHCRアフガニスタンはカブールからイスラマバードへ避難したため、しばらくの間パキスタンにはUNHCRの事務所が2つあるという事態となった。
しかし、2001年9月にカブールへ事務所を再開し、イスラマバードの事務所は連絡所となった。
難民に支援対策には3つの方法がある。

1. Local Integration 自国の社会に難民を同化させてしまう。
2. Resettlement 移住(1000人から万人レベル)
3. Repatriation  帰還

UNHCRが目標に掲げる 1つは難民の帰還を妨げる障壁の除去である。
初期対応が済んだら国連開発計画に引き継いだり、難民の帰還を促進するため、数か月分の小麦をWFP世界食料計画から拠出してもらうなどの処置を行っている。


2002年1月20日(日)

<ペシャワール近郊の概要>

日曜朝市のむせ返るような雑踏は日本の昭和30年前後を思わせる映画館の看板のきらびやかさ。この国では自動車免許は金で買えるような状態で、たいていの人は免許を取ってから運転技術を勉強するとか。クラクションを先に鳴らして相手の車をどかしたほうが勝ちだ。しかし不思議に事故が起こりそうで起こらない。車の両脇は、乗合タクシーであるスズキーがはでなボディ装飾を見せながら走り抜け、その合間をぬってオート三輪車のタクシーであるリキシャーがちょこちょこ走り回る。
かと思えば、ロバや馬に引かれた馬車がテクテクのんびり荷物と人を乗せて走っている。
ガソリンスタンド(リッター30ルピー位)
イスラマバードからペシャワールに向かうGTロードの起源はものすごく古く、紀元前4000年くらいまでさかのぼるらしい。しかし隆盛を極めたのは、紀元前300年ごろ。アレキサンダー大王や、アショカ王などが活躍した時代にこの道路の基礎が築かれたという。

<ペシャワールの薬店街の概要>

1箇所目は市内に3ヶ所ある病院の1つの前にある「門前薬局」だ。薬剤師もいる。しっかりとした応答。病院の外来患者も入院患者も処方せんを持ってきてここで調剤したものをもっていくという。注射薬もおいてあり、病院で注射してもらうという。
難民支援に必要なのは薬の量だ。支援がいくら多くても自分達の薬が売れなくてこまることはないという。
2箇所目は若干23歳の薬剤師がひいおじいさんの代から家業としている薬局。
薬をいいかげんに売っている薬屋の存在を認めてにがにがしく思っているようだ。パキスタンでは薬剤師養成年限は2年(あとでクエッタ総合病院の薬剤師に確認したら4年間であるとのこと)で薬剤師の国家試験もあるという。
優秀な学生は欧米へ留学し、そのほとんどが戻ってこないという。報酬が安いからだ。

<パキスタンの医師の概況>

 以下は現地ガイドの話として聴取した内容である。
「パキスタンの医師は7年間の大学教育を受けて卒業する。国民皆保険制度がないこと、国民の生活水準が低いこともあり、特に国立病院勤務の医師の給与は安い。そこで医師たちの多くは病院勤務とは別に地域に自分のクリニックを所有し、そこで報酬を補っている。
また、国立病院の医師は高価なブランド薬を処方することが多い」(裏付け調査未実施)


2002年1月21日(月)

<UNHCRのペシャワール支局にてのブリーフィング概要>

局長のロイ-ハーマンは不在のため代理が対応。
その後、看護婦でUNHCRのアシスタントプログラムオフィサーのMs. Shahmaz Parveen(UNHCR S.O.Peshawar P.O.Box 767 University Post Office Peshawar Pakistan)の案内でWFP世界食料計画のロジスティックスエリアを訪問。
整然と並べられた専用トラックはほとんどが日本の日野自動車製だ。白塗りのボディに青字でWFPの文字。
倉庫には膨大な量の小麦などの食料品や教材などの非食料品が備蓄されている。トラックは輸送の生命線だから自動車部品もすべて完全にそろっているようだ。ボンネットまである。
Ms.Shahmazに質問してみた。
難民の薬で一番の問題は何か。
それは圧倒的な薬の量の不足だという。薬剤師がいればりがたいが、いっしょに仕事をしたことはないとのこと。薬剤師を日本で教育して
パキスタンで生かしてもらえればそれはとてもいいことだと話してくれた。難民キャンプでは薬の使い方も不十分だという。

<在パキスタン日本大使館一等書記官・岡井朝子さんのブリーフィング概要>

アフガニスタン難民の現状を把握する為に昨年、医療調査団が組まれ、10日間の日程で調査に入り、その結果は、
『被災難民のための医療調査団報告(平成13年12月)』としてまとめられている。

医療に関して、日本大使館としてはbasic health care unitは満たされていると判断し、district hospital整備の段階を焦点に援助を計画している。
これまでの経過を整理し、今後の対応を検討する為、関係者とNGO代表を集めて、1月24日〜26日に人間開発フォーラムを開催する。

日本大使館は農水省、旧郵政、経済産業省からの出向者はいるが、厚生労働省からは来ていない。調査団報告をもとに日本政府に派遣を依頼しているが、現在はとても忙しいので来ていただけるとたいへんありがたい。
特にコーディネート能力の高い方が欲しい。

<イスラマバードの郊外にあるラジャバザールの薬屋街調査概要>

ごちゃごちゃした商店街の2箇所の薬屋で試しに買ってみた。1ヶ所は店主も英語を話し、法律の知識もしっかりしているようだ。
診断がつかないと西洋薬は売れないという。処方せんが必要だということだ。
もう1ヶ所は店主が電話をかけながら売っている。抗生物質も処方せんなしで売ってくれた。


2002年1月22日(火)

<コトカイKotki難民キャンプ調査概要>

道路は舗装した1本道。時折村落が現れる。そこは土塀で囲われた集落だ。住民もわれわれを興味深く見ている。風景はどこか昔の東北の山村のようだ。わずかな畑を耕して暮らしているのか?
2箇所の大きな水無川を過ぎると左手遠方に延々と続く白いテント群が見えてきた。ここが目的地のKotkiアフガン難民キャンプだ。
テレビや新聞では計り知れない圧倒的なテントの数にまさに愕然とした。
現地では医療ユニットの職員が出迎え。
このキャンプには1万3千人がいるらしいが、2つの医療ユニットですべてを診療し、手におえない患者はペシャワールの病院へ送るという。最も多い病気は感染症。次に皮膚病、胃腸障害(下痢など)だという。結核の患者もいる。
患者管理は家族単位で診療券と医療記録(添付資料参照)が作成される。患者は診療券を持って医師のいるテントへ来る。テントの中には医師と事務員がいて必要に応じて処方せんを書く。患者は処方せんを持って隣接テントの薬局へ行く。薬局では調剤をおこなって渡すという実にオーソドックスな「医薬分業」だ。薬は十分足りていると言っているが本当のところはわからない。種類は確認しなかったが、テーブルの前にシロップ剤の1本渡しのボトルが並べられている。錠剤は大きなボトルからピルカウンティングでチャックつきビニール袋に入れられ、薬名、分量などを書いて患者に渡される。患者名は袋には書かれない。すべて手書きだ。
薬局テントには薬品ロッカーがあり、供給は専門のUNHCR担当者が行っているという。薬剤師ではない。
一見したところ診療テントの中の衛生が気になった。地面は土のまま。入り口に消毒剤の大きなバケットが置かれているが使われている様子がない。
診療している医師も手を洗う場所がなく、冷蔵庫が置かれているだけだ。注射や処置、手術の施設はないので、部屋の消毒は必要ないという関係者のことばが気になる。
UNHCR関係者の話によると医療従事者自身が衛生観念に乏しいので困るという。

トイレはピット式トイレである。1世帯だけで1個使用するのが基本とされているが、ここでは10世帯くらいで共同利用している計算の数しかない。

<ホテルパールコンチネンタルで受信したNHKの衛星放送概要>

東京で開催されたアフガン復興支援会議の模様が20分間NHKのニュース10で報道された。
45億ドル超。約6000億円を超える支援資金が参加83ヶ国から拠出されることが決定されたようだ。暫定行政機構のカルザイ議長は満足の意を表し、この資金はすべてアフガニスタン復興の基礎的資金としてすべて使わせてもらうと話す。民衆に散逸した銃器はすべて回収し、統一した国軍をできるだけ早く組織して、かつての兵士を国軍兵士や警察官として再雇用する意向だ。平和の保障が各国からの支援を円滑に進める鍵であることを十分認識している。
今後は、各国の援助資金が確実に活用されるよう国内での監視と調整業務が大きな役割を担うであろう。
緒方特別代表は、もっとも大事なことはここで支援各国がアフガニスタンから手を引かないこと。Time and persistenceが情況を必ずよくするであろうという自らの哲学を披露した。

<<コーヒーブレイク>>

こちらの自動車の走り方はクラクションを押して相手を押しのけたほうが勝ちっていう感じ。車間距離などまったく無視で、どんどん追い越していく。しかしあることに気づいた。そう、これだけ車や馬車の数が多いのに渋滞がないのだ。その理由がはっきりした。交差点に信号がないのだ。あっても点灯していない。時々交通警察(traffic police)が交通整理のようなことをしているだけだ。これは大きな発見だ。


2002年1月23日(水)

<ペシャワールの南東にあるジャロザイキャンプ訪問概要>

キャンプへ向かう途中10数台の難民を乗せた大型バスに出会う。パキスタン政府が認めていないキャンプなので、難民をコトカイ難民キャンプなどへ移送しているらしい。しかし秩序ある生活をしてもらうためには移送がなんとしても必要なのだという。
ニュージャロザイへ行く路地は、周りが土塀で囲まれ車一台がやっと通れるような狭いでこぼこ道だ。1kmくらい走ると無秩序に並ぶ避難民のテントが見えてきた。
突如300名〜400名の群集に車が包囲され、身動きがとれない状態になった。車の屋根につんだ我々の荷物を支援物資と勘違いして人々が集まり出し、さらに同行取材中の日本人TVカメラクルーの撮影が難民の苛立った感情を刺激したらしい。警備にあたっている地元警察官に制止され、管理所へ連行された。
いくつかの質問をされ、誤解を解かれてやっと解放された。

<イスラマバードにあるWHOのアフガン事務所ブリーフィング概要>

カイロにある地域事務局の担当者が応対。日本にも来たことがあるし、JICA職員といっしょに働いたこともあるらしい。FIPのピーター・キルガスト会長やトム・ヘック事務局長とも面識があるらしい。
われわれが見たコトカイ難民キャンプの衛生管理情況を伝えたら、深刻そうな顔して、末端まで衛生教育が徹底していないことを認めた。しかしWHOは監視と政府への勧告はできても直接介入はできないらしい。何かいいアイデアがあれば提案して欲しいといわれた。
またWHOは技術向上のためのワークショップを開いているというが徹底されてはいないようだ。
WHOとFIPの共同フォーラムのことはよく知っているようで今月予定されていたフォーラムは延期されているらしい。理由は聞かなかった。


2002年1月24日(木)

<UNHCRのクエッタ支局によるブリーフィング概要>

 クエッタ周辺の難民キャンプの位置関係および難民の流入情況について簡単な説明を受けた。
  この後、翌日訪問するサマリプレイスの現地概要を把握する為、1時間にわたり予備調査を行った。日没は夕方5時半から6時ごろでそれ以降は危険だから、現地でのフィールド調査はsunsetまでと厳命された。


2002年1月25日(金)

<サマリプレイスでの支援活動概要>

配布毛布数47枚
寄贈薬品

内用薬

薬品名

使用数量

備考

バファリン

100錠

 

 

レスプレン

100錠

 

 


外用薬

薬品名

使用数量

備考

モーラステープ

14枚

 

 

ナパゲルンローション

50ml×2本

 

 

インテバンクリーム

25g×3本

 

 

ウレパール

20g×2本

 

 

AZ点眼液

5ml×30本

 

 

※ この地区支援を行っている日本人に現物を提供し、基本的な使用方法を説明してきた。なお、説明中に処方せんを持ってきてこの薬が欲しいと行ってきた住民が2名おり、処方せんを医師に書いてもらっても薬を買えない経済的な貧困さが見て取れた。


2002年1月26日(土)

<アフガニスタン国境隣接のChaman camp調査概要>

国境なき医師団Medicine san Frontiersのクリニック
を訪問。スタッフは医師と薬剤師その他のスタッフ。

薬剤はオランダにあるInternational Dispensary Association(IDA:http info@ida)の名前入りのエッセンシャルドラックが使用されていた。
チャックつきビニール袋に入れて、ピルカウンティングして渡している。

砂塵が吹き込む環境のテント内で清潔な調剤を行えるのだろうかというのが素朴な疑問である。トランク式のコンパクト調剤台があればコンタミネーションや保管、補充などの管理が合理的に行えるであろう。

Roghani Refugees Camp
茶碗洗い用の給水タンクから水を採取した。


2002年1月28日(月)

<Muhammad Kheil難民キャンプ調査概要>

このキャンプはもともとアフガニスタンソ連侵攻で逃げてきた難民が住んでいたキャンプで土塀が築かれキャパシティは10万人分ある。現在4万2千人。
その後、徐々に帰還して人口は減っていたが、米軍爆撃に伴う今回の流入で再度人口が増加している地域である。人口構成はソ連侵攻当時からいるold refugeesが9%で残りはnew refugeesである。old refugeesにはハンディキャップを持った人が多いので帰還したくても帰れないのが現状である。
new refugeesとold refugeesとがなかよくやっていくためには、間に家族や親戚が入っておりあいをつけているしかないとのことである。今日だけでも500家族がバスでrelocationされて来ており、registrationポイントは凄まじい様相を呈していた。
家財道具は後でトラック(20家族分で1台)が運んできていたが、どうやって識別するのか不思議である。たぶん運転手の名前で確認するのでは。(方法は1月29日に判明した)

現地には浅井戸が460あるが、そのうち生きているのは4つにすぎない。
他の井戸は涸れたり、危険防止のため埋め戻している。
 
<OPD : Out Patient Department外来診療所の様子>
  現在、キャンプのクリニックで不足しているのはアンピシリンやアモキシシリンなどの抗生物質。3ヶ月分の備蓄が1ヶ月半で消化しているようだ。
規定では医師の勤務時間は8時から16時であるが、実際14時で帰ってしまうので、それ以降と夜間は無診療体制だ。
医師はキャンプ内のハウスから通っている。
BHU :Basic Health Unit 難民1万人あたりに1つ設置され、医師、看護婦の他にPTなどが配属される。

難民の受け入れの流れは以下のとおりである。

@Departure Pointへ難民が集合する。→ A難民の仮登録を行う。 → Bバスでキャンプへ難民が移送される。→ C難民登録作業を行う。 → Dおもに子供を中心にHealth screeningを行う。(このキャンプではAMDAが担当していた。)→ EHealth screeningで予防接種が必要な小児にvaccinationを行う。→ Fテント・毛布・ストーブ・なべ釜・ケロシン・石炭・塩・キルトなど一式を配布する。(ここではIslamic Relief;本部英国のバーミンガムが支援していた。)→ Gそれぞれの住居地へ移動する。

<AMDAの医療支援と医薬品>

AMDAは難民キャンプで医療支援を行うときはUNHCRと契約を結んで行うという。費用は個人や企業の寄付でまかなっている。今回のキャンプでの支援は当面9月まで。医薬品は自前購入と今回ユニセフからの提供で賄っているが、提供された小児用薬剤が錠剤ばかりで、シロップ剤が不足しているらしい。現地調達は高価で困っているようだ。
なお今回AMDAが日本から持ち込んだ医薬品は日医工製品で、日本の協力医師から提供されたものであるという。内容はジクロフェナックとゾピクロン、鉄剤でエッセンシャルドラックとは関係なく持ち込まれた製品群であった。
看護婦さんは、日頃なじみのない製品であることと製品情報の不足によりたいへん悩んでいたのが印象的だった。

このキャンプでは医師3名(male doctor2名とfemale doctor1名)看護婦、プロジェクトコーディネータなどが働いている。医師は現地採用だという。
看護婦として働いている日本人スタッフの工藤さんは臨床検査技師の資格もあり、クエッタでの検査業務現地テクニシャンの養成をあわせて行っているとのこと。ほとんど無償ボランティアらしい。プロジェクトコーディネータの山上さんは、本来はインフラ整備や職業訓練の技術者で、過去にミャンマーなどで働き、今回AMDAの派遣に応募して採用された職員である。

<難民のRepatriation促進方法>

1. 集団帰還方式 : 最初に部族の長老とコンタクトをとり、家族単位で帰還のための条件を聞き出してもらい、それにもとづきUNHCRがフィールド調査を行う。その結果を受けて具体的な改善策を提示して100人単位の帰還を計る方式。
2. マッチングリスト方式 : 夫と妻のそれぞれの出生地と帰りたい場所のすべてが一致した家族から帰還を進めるとうまくいくことがかつてミャンマーで成功している。


問題点

1. 各家族単位100kgの支給品をどうやってそれぞれの住居地に円滑に運ぶか。
2. ケロシンでは管理が難しく、ストーブの芯もやけつく。石炭をうまく使う方法はないか?


2002年1月29日(火)

8am、難民のDeparture pointであるゴサバードGhousabadとパンチフティを調査。
今まで親戚等に身を寄せていたアフガン難民が、家族単位で正式な難民キャンプへ移動するための集合場所だ。この日だけでもタジク人中心にラティファバード難民キャンプへ行く家族が、ゴサバードでは201家族。パンチフティ120家族が集合していた。
  集合時間や場所の連絡は顔写真入りの案内カードを渡して行う。
  荷物はトラックに積むのだが、家財道具入りの袋に氏名等を書いて識別しているという。
  難民輸送用のバスと家財運搬用のトラックはすべてUNHCRが輸送会社(ここではAl-yousaf coach c/oという会社)と契約してチャーターする。費用はもちろんUNHCRが出すのだが、1台のバスおよびトラックにつき1回の輸送が4500Rsだという。正規料金が13,000Rsというからかなりの値引き価格だ。
難民等をキャンプに運んだ後は、空で帰って来るのが規則だが、実際は1人あたり30から60Rsで街へ戻る人を乗せてアルバイト収入を得ている実態もあり、そのような不正を見逃さないようにするのもUNHCRフィールドオフィサーの仕事だ。
3月には難民輸送等の状態がフェアに行われているかどうかを内部査察するinternal auditorがやってくるという。その後は外部査察を行うexternal auditorが来ることになっているという。

前日の井戸水水質調査の結果を税田さんへ説明した。大腸菌が検出され、亜硝酸性窒素も検出されたことに大きな関心を示した。

検査の正式なレポートは別添資料の通りである。

 

 

 

 

<イスラマバード市内の薬局調査>

この日はパキスタンの薬剤師教育制度について聞き取り調査を行った。
パキスタンで薬局の業務に従事する職種には3つのカテゴリがあるようだ。
ただし、以下の情報は正式な部署たとえば保健省などに確認をとっていないので、あくまでも聴取情報ということを付け加えておく。

カテゴリ

資格取得方法

権限

A(薬剤師と呼ばれる)

12年間の基礎教育を受けたあとに4年間の大学教育を受けて薬学士を取得し、試験に合格することが必要。

薬局の開設、調剤、製薬企業の仕事などへの従事。

12年間の基礎教育を受けたあとに4年ないし5年の薬局等での実務を経験し、基礎と実技の2つの試験に合格することが必要。

調剤補助、一般薬の販売等。

Bカテゴリ同様に実務経験が必要ではあるが、試験の必要がない。

販売の補助

 

▲戻る  | ▼次へ

 

アフガン難民対策薬剤師団報告書1 | アフガン難民対策薬剤師団報告書2 | 無登録農薬についての緊急情報

薬剤師からみたナフサクとは | バングラディッシュ交流調査薬剤師団報告書