バングラディッシュ交流調査薬剤師団報告書

6.考察

バングラデシュでの調査の結果、彼らの国ではヒ素による健康被害は身近なことであって、1つの集落に皮膚に症状の出ている人がいるということが稀ではないということがわかった。さらに、国が(井戸水を使用するのでなく、雨水を貯めて使用するようにと)対策を講じられているように人々のヒ素への理解度と興味は考えていた以上に大きかった。赤い井戸は飲めない、緑の井戸は飲む事が出来るというような事実は調査した範囲内においては周知の事実であった。しかし都市から離れた郡部での調査を今回行っていないので結論は引き出せなかった。

 

半年に一度井戸のヒ素濃度の調査が行われると聞いていたが、半年以内で調査を行った井戸は今回調べた場所ではなかった。時間が経ったことによる濃度の悪化方向への推移が心配されたが、今回の調査のなかでは改善方向への井戸(基準として赤から緑へ)しか見つからなかった。しかし、現地の人々は乾季には水不足のため赤い飲用に使用できない井戸でも飲用に使用せざるを得ない状況を目の当たりにして、短期間の間隔で調査して、飲むことのできる井戸の確認と飲める井戸の確保は必要であると考える。また、まだ調査が行われていない井戸の存在も確認でき、彼らの都合のいいように判断して使用していることから未調査の井戸のヒ素濃度測定は早急に行われるべきである。今回の調査の結果、WHOの基準に照らし合わせても、緑の井戸に関しては我々が調査できる範囲に関してはほとんど飲用に適していると言え、赤い井戸は飲用できないものとわかる。しかし、すべての井戸について正しいわけでもなく、誤差も生じている。水は生命の源であり、毎日の生活に不可欠である。その上、乾季の影響で水不足になるこの国にとって、飲用に適する井戸の確保は不可欠である。今まで以上に短期間の間隔での調査と、正確さを期するため我々の使用したキット以上に低濃度までの調査は必要である。短い間隔での正確な調査は住民に健康と安心をもたらす事ができるだろう。

 

赤や緑の色塗りの明確さだが、初めて見ると多少は理解に苦しむ物もあるが、現地の人々の理解度から考えて、ずっと同じ井戸を使用し続けるのでそこに住む住人にとって理解するためにはそれほどは問題にならないと考える。

 

バングラデシュでは国として、また、様々な機関がヒ素の問題について深刻に考えているようである。様々な機関が独自の切り口で調査を行っている。農業に関するヒ素の推移、地質学的に考えたヒ素の汚染、畜産業に関してなど色々な分野で研究が行われている。しかし、彼らの研究はすべてが独立していてそれぞれの分野のみでの研究となっているため、これからの課題として、これらの研究を統合して総合的な研究が必要である。

今回我々は2種類の調査キットを日本からバングラデシュに持ち込んだ。使用した調査キット(廣中式 ヒ素フィールドキット)と持参した調査キット(共立の簡易水質分析)、これらについては測定できる範囲についての違いはあるが、誤差はほとんどなかった。そして、バングラデシュで購入した調査キット(MERCK Arsenic-Test)もまた同様に誤差無く調査できた。また、これらの調査キットはどれも訪問した研究施設の中に見られ研究に用いられている事がわかった。日本で手に入る調査キットも現地で用いられる調査キットも差はないことがわかる。

 

交流調査団が今回設置費用提供の確約をした井戸については、住民が平等に安心して飲める井戸であるのはもちろん、継続的な使用を図るためにも住民による自治管理が定着するよう期待している一方で使用状況や衛生管理については今後の調査が必要である。

Y.提言

ヒ素の問題はその水の飲用についての問題だけで終わらない。雨季と乾季による土壌の変化、水で育った植物、その植物を食べて水を飲んで育った家畜。様々な分野の問題が織り交ざる。

バングラデシュ国内でそれぞれ独自に行われているヒ素の研究を取りまとめ、総合的な研究として発展させていくことが必要であり、政府機関や民間機関、NGOを含めてその調整のためのフォーラムを形成する必要があると考えられる。

また調査や研究の取りまとめの専門的指導者としての役割を薬剤師が担うべき必要性は高く、今後、これら調査研究結果をもとにヒ素問題を解決するべく国や協力団体に働きかけなければならない。

さらにダッカコミュニティ病院が取り組んでいる、地域住民自治による井戸水浄化システムの管理は、援助依存から脱却し、エンパワーメントによる発展を進めるためにも有力な事業理念であると認識するに至った。

国際ロータリーが発展途上国援助に関る際にどのような現地パートナーを選ぶべきかの有力な示唆となるものである。今後の活動にぜひ活かしたい。

Z. 謝辞

今回の交流調査で以下の方々にご協力を頂いた。ここにお名前を掲載して衷心よりの敬意を表するしだいである。

弘前西ロータリークラブ

国際ロータリー第2830地区

フラワー観光株式会社

[.参考資料

●バングラデシュの歴史

古代〜第2次大戦

 バングラデシュは1971年にインドから独立した若い新興国家である。しかしその地域の歴史は古く、紀元前4世紀前半のマウリヤ朝にさかのぼる。始祖チャンドラグプタが西北インドからギリシア軍事勢力を一掃、その後アショカ王時代に最盛期を誇る古代仏教国家としての歩みを基盤としている。

 さてその後、1201年にトルコの侵攻により徐々にイスラム教徒のベンガル支配が始まり、14世紀半ばにはムスリム独裁政権が生まれた。そこでは都市化が進み、道路や橋、建物の建設が行われた。さらに1576年にはムガール帝国の支配下に入り、多くのベンガル人がイスラム教徒に改宗した。この時代にバングラデシュでも多彩な文化、芸術が花開きその栄華を今に伝えている。

このように、現在でもイスラム教徒が多数を占める一方で、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒が並存する多彩な宗教信仰を認める寛容な国民風土はまさに長年の歴史の中で涵養されてきたものに違いない。

 調査の途中で立ち寄った国立博物館やダケッシュリ寺院(バングラデシュのヒンドゥー教徒総本山)で目にした深遠な文化と宗教の歴史はそのことを確信するに十分であった。

 さてムガール帝国の衰退と入れ替わりに台頭を始めたのは東インド会社を拠点に帝国主義路線を推し進めていたイギリスであった。

 イギリスは数多くの反英抵抗運動に遭いながらも英国式の教育、司法制度を導入し支配を強めていった。この影響は今も色濃くバングラデシュの都市部に残っており、訪問先の農業試験所やホテルの建築様式や運営方式はまさに英国式といえるものである。また車は左、人は右という交通スタイルにもその影響を見ることができる。

第2次大戦〜

1947年の印パ分離独立時は、宗教(イスラム)に基づき、一旦はパキスタンへの帰属(東パキスタン)を選択したが、ベンガル人としてのアイデンティティーに訴えた独立戦争(第三次印パ戦争)を経て、197112月にパキスタンから独立。
  独立後、長年に亘り軍事政権(1975-1990)が続いたが、199012月、エルシャド将軍(大統領)が、2大政党(BNP、アワミ連盟)及び国民の退陣要求に応じた結果、平和裡に民主化に移行。1991年の憲法改正で議院内閣制へと体制を変更した。以降、5年ごとに総選挙を実施。総選挙の度に政権が交代している。(1991年、1996年、2001年)。
  200110月の総選挙では、BNP主導4党連合が300議席中216議席を獲得して大勝し、カレダ・ジアBNP総裁を首班とする連立政権が発足。

 今年10月の総選挙をひかえ、ダッカ市内にはいたるところに政治ポスターが貼られ、しだいに緊張感を増していた。

 また420日は有名なホッタール(政治ストライキ)に遭遇した。朝6時ごろから夕方6時くらいまでは物騒な治安になるので、交流調査団は安全を期して朝5時半に目的地であるガジプールへ出発した。通りにはすでに警察官が要所で警備につきバスはすべて運休。リキシャがいつもより少ない台数が走っているだけで普段に比べれば閑散した感じがあった。

治安を悪化させ経済活動の低迷を引き起こすホッタールは、年々国民からの批判の声が高まっているという。もともとインドのガンジーが作り出した政治闘争方式だというがすでに本家インドでは消滅しており、バングラデシュでもホッタールが消える日はそう遠くないだろうと言われている。

バングラデシュ地図(上) ヒ素濃度の分布(下)

     ガジプールロータリークラブから送られてきた招聘状

バングラデシュに寄贈した井戸

 

最初に井戸水調査を行ったショナルガオ地区のドリカンディ村で、弘前西ロータリークラブがガジプールロータリークラブに資金提供し、ガジプールロータリークラブと現地の村人が協力して作った井戸である。

 深さ100m、ヒ素濃度0mg/Lの安全な水であり、他の村の人と共同で管理することを約束としている。

 今後の公平で安全な井戸水の使用の継続を期待したい。

 

 

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